ゆっくりと胸を満たしていく想いは温かくて。
 今まで感じたことのないそれに戸惑い、逃げ出した。






























 ルート・フェインバルトは問題児で有名だった。
 魔術基本修学院では基礎を憶えず、派手で威力のある魔術ばかり憶えたがり、蔵書室にある禁書の類を持ち出してはそこに書かれた魔術を学友に対して試す、ということを繰り返す。
 さらには必修であるはずの回復魔術に至っては、使えるのかどうかさえ定かではないのだ。
 それなのに、彼は学院を追放されることはなかった。
 大きな理由は、その身体に宿した膨大な魔力。彼が持つ魔力は、普通の人間が持てうる魔力量を超えている。制御を憶えずに暮らさせれば、何時暴走してもおかしくない。
 そして暴走した際、それを止めるのに必要な人数は、四人以上。それも魔術に詳しい大人でなければいけない。
 学院にいれば、魔力の暴走を抑える結界が常に張られているため、大惨事を起こすことはないのだ。
 故に、教師達は彼を学院から追放するということが出来ないでいる。

「本当は厄介者には立ち去って貰いたい、って思ってる癖に」

 午後の授業を無断欠席し、ルートは大樹の上で欠伸を噛み殺した。その手には、また蔵書室から失敬してきた禁書が一冊。
 ぱらり、とページを繰り、羅列された文字を目で追う。
 難しい魔術文字を使用されたそれを気にせず、ルートは同じペースで目を動かし続ける。
 やがて、その動きは唐突に止まった。
 悪いとも善いとも言えない平均的なルートの聴覚が、不自然に草が揺れ葉が擦れる音を拾った。
 誰か来たのだろうかという思いと共に、誰だろうという好奇心が湧いた。普段なら人に対して働かない好奇心だが、この時ばかりは気になった。
 音が聞こえた方向を探し、大樹から降りてその方向へと歩を進めていく。
 暫く歩けば、音の主が倒れていた。

「…………っ、ぅ」

 見つけた途端ルートは目を見開く。
 呻き声を漏らす先程の音の主は、ルートと同い年ぐらいの少年だった。
 左足からちょっとした怪我から出ているとは思えない量の血を流し、腕や身体にも切り傷や擦り傷がある。
 傷口から空気へと染み出し融けていく血臭にルートは眉を顰めつつ、それでも少年に近寄っていく。
 目の前で死なれては堪らないし、怪我しているのを放っておいたと教師に告げ口され、面倒になっても困る。そんな考えに行動理由の大半を占められながら。
 近寄ってみて初めて解ったのは、その怪我が恐らく昼休みの中盤頃に出来たであろうものだと言うこと、太い枝か何かが刺さっていたらしいこと、その枝を自分で引き抜いたであろう事だ。
 血に濡れた太い枝は周りを見ればすぐに目に付いた。
 しかし普通は友人などがすぐに見つけるのではないだろうか。そして大人である教師を呼んでくるはずだ。
 そう考え、けれど今はそんなことを考えている暇はないなと思い直す。

「おい、大丈夫か」

 意識がハッキリしているのか確認のために声を掛けると、うっすらと脂汗に濡れた目蓋が持ち上がる。

「……だ、れ」

 案外ハッキリとした発音に怪我が治れば自分から立ち去るだろうと一人頷き、左足へと手を伸ばした。
 ぴくりと少年の身体が痛みや恐怖によって揺れる。それを気にせずに更に手を伸ばし、傷口の真上に手を翳す。
 精神を傷口に集中させ、体内で魔力を練り上げていく。
 そして練り上げた魔力が使いたい魔術の質と量になったところで世界に解き放つための力ある言葉を紡いだ。

「人の内に眠れる力よ。眠りから覚め、傷つきし肉体を癒し、一度の加護を与えよ」

 ざわりと練り上げられた膨大な魔力が力ある言葉によって世界に具現する。
 目に見えないそれは少年の傷口に纏わり付き、その傷を普通ならあり得ないスピードで回復させていった。
 ルートが使った魔術は禁術ではなかったが、その必要魔力の膨大さからほぼ禁止されているようなものである。
 禁書を見たときに憶えたそれを使ったのは今回が初めてであるが、ルートは何の躊躇いもなく、成功しても何の感慨もなかった。
 彼は必修魔術を使えないわけではなく、使わないのだ。
 己が持つ巨大な魔力の所為で、回復魔術が必要な怪我を負うことがなく、掛けるような相手がいないだけ。ただそれだけのことだった。
 だから今回が初めての行為と言っていいだろう。
 傷の痛みがなくなった少年が驚きながら身体を起こす。
 あまりに急いで起こしたため軽く目眩を起こしていたが、ルートは何も言わずにそれを眺めていた。
 何度か左足の傷口があった部分に触れ、足を曲げ伸ばししてから少年は呟く。

「…………すごい」

 茶色の瞳を真ん丸く見開いて素直に驚きを表現してから少年は跳ね上がるように立ち上がった。
 出血量から言えば立ち眩みを起こしそうな勢いだったがそれはなく、少年は躊躇いなくルートの手を握って興奮したように口を開いた。

「凄い、凄いよ! あんなに痛かったのに、血が出てたのに、治っちゃった! 凄い!」
「お、おいっ」
「キミ凄いよ! 天才だよ!」

 ぶんぶんと掴まれた手を振られ、いい加減にしろと怒鳴りたくなったとき、少年の動きが止まる。
 何事だろうかと見れば、真剣な色を瞳に浮かべ、けれど顔は笑顔を作り。

「ありがとう、お陰で助かったよ」

 言われた言葉に、今度はルートが驚く番だった。
 驚き狼狽え、慌てて少年の手を振り解く。顔にどんどんと熱が集まっていくのが解った。
 あまりのことに対応できなくなったルートは、地面に落としていた禁書を素早く掴むと踵を返して少年から逃げるように走り出した。
 否、逃げ出したのだ。
 ゆっくりと胸を満たしていく想いは温かくて、今まで感じたことのないそれに戸惑い、逃げ出したのだ。






























 あの時少年に近付いた時の感情の中に、ほんの少しだけ温かい想いに繋がる感情が交ざっていたことに、ルートはまだ気付けない。