「何を見ているの?」
「そら」
「ああ…………満天の星空だね」
空気が澄んで、肌に突き刺さる。
素肌を晒しているこの場所では、この澄んだ空気は少し痛いかもしれない。
隣でじっと上を見つめている少女をちらり、と見てから、自分も上を見た。
天の川さえ見えるんじゃないかと言うぐらい視界一杯に広がった星空は、都会ならば眠らぬネオンによって掻き消されるほど微かな光を沢山湛えている。
都会から離れた静かな土地にある、小さな温泉旅館。
そこで自分と少女が出会ったのは、数ある偶然の中の一つだった。
(あー、何か最近よく疲れるんだよなー)
そう思いながら、温泉好きの友人に勧められた静かに休日を過ごせる旅館、「夕凪荘」の玄関を通り、チェックインする。
旅館ではチェックインとは言わないのだろうが、生憎自分はその他の言葉を知らない。
入ってみれば、旅館と言うより民宿に近いかもしれない。暖かな雰囲気の漂う、まぁ悪くない感じの旅館だ。
「さて、と」
案内された部屋に荷物を置き、早速貴重品だけを身に着けて旅館内を探索することにする。
静かに身体を休めるために来たのだが、こういう初めての場所は探索したくなるのが人の性というものだろう。
廊下に出、とりあえず右方向へ足を進める。暫く歩くと、ゲームコーナーがあるらしく、案内板が壁に掛かっていた。
ゲームコーナーがある辺り、やはりここは旅館だ。
「へぇー、懐かしいゲームもあるねぇ」
気が向いたので足も向け、ゲームコーナー内を歩いて回る。
と、足に軽い衝撃が来た。
「およよ?」
下を向いてみると、一人の少女が尻餅をついていた。どうやら自分がぶつかってしまったらしい。
「ゴメンよ、お嬢ちゃん」
「…………」
そんなに自分は怪しいのだろうか、少女はこちらを無表情に見上げてくる。正直言って居心地悪くなってくる。
しゃがんで同じ目線にすると、その動きを少女は視線で追ってきた。
「いやね、ぶつかるつもりはなかったんだよ」
そう言いながら少女をよく観察する。
綺麗な黒髪を腰辺りまで伸ばし、結ばずに遊ばせている。お陰で尻餅をついている今、髪の毛が床と親交を深めそうだ。そうなったら綺麗な髪に埃が付くだろう。
相変わらず何の感情も浮かんでいないような黒い瞳は、ただ自分の姿を映し込んでいる。
と、ぱたぱた駆けてくる足音が聞こえた。
「ごめんなさいね、この子人見知りが激しくて」
「ああ、そうだったんですか。嫌われたんじゃなかったんですね」
少女の後ろに止まった人を見上げて、自分は眉を寄せた。相手は驚いて目を丸くしている。
「亜里砂ちゃん?」
「…………お久しぶりです、亜実さん」
彼女は昔よく遊んでくれた従姉妹のお姉さんだった。
「不思議なこともあるものねぇ」
「世間は狭いと言うことでしょうか」
「そうかもね」
亜実さんの部屋でのんびりと時間を潰しながら、昔話に花を咲かせる。
そんな自分と向かい合った亜実さんの横では、彼女の娘の神流ちゃんがぼーっと座っている。
「実はね、旦那も来てるんだけど。……近くの川に遊びに行っちゃって」
「釣りですか?」
「ぴんぽーん♪」
楽しそうに人差し指を立てて言う亜実さんは、若い。見た目も若いが中身も若い。そして雰囲気が穏やかだ。
この穏やかな雰囲気が好きで、昔はよく一緒にいた。一緒にいて何をするかといえば、ただ本を読んだりテレビを見たり。普通の子がやるような遊びとは無縁だった。
亜実さんといると時間がゆっくり進んでいるような気分になる。
「家族旅行ですか。いいですね」
「うふふー。……ねぇ、亜里砂ちゃん。亜里砂ちゃんはどうしてここに?」
「はぁ…………。最近疲れやすくて。リフレッシュするためには静かに温泉に浸かるのが一番! と友人に押し切られまして。紹介して貰ったのがここなんです」
「じゃあそのお友達さんに感謝ね」
久しぶりに懐かしい人に会えたんだから。
そう言って微笑む亜実さんは、自分の知らないとても穏やかで柔らかな笑顔だった。
結婚して、子供が出来て。それだけでこんなに変わるのだろうか。それとも、会っていない月日が長かったからだろうか。
それから暫く他愛もない話で盛り上がり、自分が部屋に戻ろうと腰を上げたときだった。
「そうだ、亜里砂ちゃん。神流の遊び相手、してくれないかしら?」
唐突ににっこりと切り出され、自分の動きが止まる。
「……自分が、ですか?」
「そうよ」
突拍子もない。そう思ったのは胸の内に留めておいて、悩むように眉を寄せる。
「人見知り、激しいんでしょう?」
「だからよ。お母さんのお友達とは仲良くして貰わないとっ」
何が「だから」なのか解らないが、とりあえず人見知りを克服しようという発言と受け取ることにした。
肩を竦めつつ了承すると、はい、と神流ちゃんを渡される。
「人形じゃないんですから……」
「あら、だから投げなかったんだけど?」
何処かずれた返答をしながら、自分と神流ちゃんを部屋から追い出す亜実さん。
廊下に出てからふと気付く。
これって、厄介払い? 押しつけられた?
ちらり、と神流ちゃんを見ると、
「…………」
無言で廊下の壁を見つめていた。
人見知りなんじゃなくて、ただ自分を表現するのが苦手なんじゃなかろうか。
「えっと、神流ちゃん?」
試しに呼んでみると、ぴくり、と反応してこちらに視線を向ける。
聞こえてはいる。ただどう思っているのかは解らなかった。
「ゲーム、しに行こうか?」
首を傾げて聞いてみると、こくり、と頷いてくれた。
そのことに少々安堵しながら、神流ちゃんの手を掴んでゲームコーナーへとまた足を向けた。
「さて、何をする?」
ゲームコーナーの色々なゲームを目にして、そう言えば子供の好きそうなゲームを知らないことに思い至る。
苦し紛れに質問してみれば、くい、と繋いだ手を引かれ、UFOキャッチャーの前に来た。
キャラクターのぬいぐるみがたくさん入ったUFOキャッチャーは、やはり子供にも人気らしい。
いや、この場合は大人「にも」というべきか。
「これ?」
しゃがんで目線を合わせれば、こくりと頷いてくれる。
よいしょ、と神流ちゃんを抱き上げると、自分は小銭入れを出してコインを投入する。
使ったお金は必要経費として後から亜実さんに集るか。
ぺち、と神流ちゃんが横にスライドするボタンを押す。
ウィー……ン、と動いていくUFOキャッチャーのクレーンを見ながら聞いてみる。
「どれが欲しいんだい?」
「……ねこさん」
中に入っている猫のぬいぐるみを、ボタンを押していない方の手で指さす。
「じゃあ手を離して?」
猫のぬいぐるみの前まで来たところで声を掛けると、神流ちゃんは大人しくボタンから手を離した。
次は奥に向かうためのボタンだが、この操縦が難しい。よくここで泣く事になるのだ。
「ほい、じゃあ次のボタン押して?」
自分の言葉にこくりと頷くと、ぺち、と次のボタンに手を乗せてクレーンを動かす。
ウィー……ン、と先程と同じ音を立てて動いていくクレーンを見守り、どの瞬間で停止させようかと悩んでいると、急に神流ちゃんが手を離した。
「へ?」
我ながら間抜けな声だと思った。
その声に掻き消されるような静かな音でするすると降りてきたクレーンが、猫のぬいぐるみをがっちりと挟む。
そしてするすると掴んだまま上へ上り、奥から手前へ、右から左へと移動して商品の猫のぬいぐるみを出口へと導いてくれた。
「…………上手いんだね」
床に神流ちゃんを降ろし、取り出した猫のぬいぐるみを抱かせながらそう言うと、首を微かに傾げて自分を見上げた。
可愛いしぐさだが、先程のクレーンゲームの才能を見せられた後だと少し憎らしい気もする。
相手は子供なのだが。
溜息を吐くと、神流ちゃんのぬいぐるみを抱いていない方の手を取り、次のゲームへと向かった。
「……………………亜実さん?」
「ああ、ごめんなさいねーっ。二人の可愛らしい姿を見ていたら創作意欲が湧いてきてね?」
二、三時間後に亜実さんの部屋へ戻ると、持ってきていたらしいノートパソコンのキーボードを一心不乱に叩く姿があった。
本人曰く、仕事として児童向けの小説を書いているらしい。
自分と神流ちゃんでどんな児童向け小説が出来るというのか問いつめたいが、それは今脇に追いやっておくことにする。
亜実さんに出会った時点で色々と諦めている。
「うーん。もう少しやってたいから、亜里砂ちゃん、神流と温泉に言っていてくれないかしら? 後からすぐに行くから」
亜実さんが摘んでいたポッキーを二本取って、一本を神流ちゃんに渡し、もう一本を自分の口に運ぼうとしたときの爆弾発言投下。
思わず咥えたポッキーをポロリ、と落としてしまった。
「そこまで頼むんですか?」
「だって亜里砂ちゃん面倒見いいんだもーん」
頭が痛くなるような発言をしてくれた亜実さんをじろり、と見ると、服をくいっ、と引っ張られた。
ひょい、と服の先を見れば神流ちゃんの手。
「……おんせん」
「あらあら、気に入られちゃったわねー」
「誰のお陰ですか、誰の」
どうやら気に入られたらしい。
眉を少し寄せながら、すぐに来てくださいよ、と亜実さんの背中に一言掛けて、神流ちゃんの手を引きもう一度廊下へ出た。
秋や冬は日が暮れるのが早い。もう薄暗くなった辺りを窓から見ながら、自分は神流ちゃんと手を繋いで旅館の廊下を歩いていく。
脱衣所まで来て、この旅館の温泉が露天風呂であることに初めて気がついた。
「へえ、じゃあ雪が降ったら雪見風呂か。……風流かも」
呟き、神流ちゃんの着替えを手伝って風呂場へと出る。澄んだ空気が剥き出しの肌に触れ、冷たいと言うより若干痛かった。
ざばざばと湯船の中に入ると、空気と温度差があって普通より熱く感じた。
神流ちゃんにはしっかりと掛け湯をさせて、温泉の中に招き入れる。
二人でじっとお湯に浸かっていると、神流ちゃんが上を見つめていることに気付いた。
「何を見ているの?」
「そら」
「ああ…………満天の星空だね」
頭上に広がる星空を眺めながら、ゆったりと体の芯まで温まる。
がらり、と扉が開いて入ってきたのは亜実さんだった。
「きゃー、寒いわねー。でも露天風呂なんて素敵」
軽いノリでそう言うと、湯船の中に入ってくる。
湯中りする前に出ようと湯船から上がると、亜実さんが手を掴んで引き留めた。
「今日はありがとう。それと、ごめんね?」
「いえ、いいです」
首を横に振って、今度こそ風呂場から立ち去る。
脱衣所で着替えて、部屋に戻って夕食を取る。
山の幸がふんだんに使われた料理を口に運んでいると、携帯の着信音が部屋の中に響く。
「…………はい?」
『あ、亜里砂? どーよ、ゆっくりしてる〜?』
「従姉妹にあった」
『はぃ?』
「偶然従姉妹にあって、子守した」
『………………面倒見いいよねー、亜里砂って』
友人の苦笑が携帯を通して聞こえた。
自分でもそう思うよ、と言って通話を切る。
とりあえず、色々疲れたので今日は早く寝よう。
そうして自分は久々にゆっくりと眠りに付いた。
後書き
とりあえずオチ無しな話。本気でオチはありません。
書きたいまま欲望に任せて書いたらこうなりました。
温泉と少女と星空が書きたかっただけ。ただそれだけなんです。
日常にほんの少しある偶然。
ほのぼのとお送りできたのなら嬉しいです。
…………ちなみにこれが現実逃避だというのは秘密。