あと百本……「女の子」








 向かいの家の女の子。死んじゃったそうよ。
 何でも台風の日に外に出て、増水した川に落ちちゃったんですって。
 まだ小さかったのに、可哀想ねぇ。
 親は一体何をしていたのやら。







 噂好きの近所のおばさん達が話をしている。
 屯しているのは私の家の前。だから当然、私もその話を聞いてしまうわけで。
「すいません、ちょっと通して貰えます?」
 重たい買い物袋を持った私を見て、おばさん達がごめんねぇ、と面倒くさそうに退いていく。人の家の前で出入り口を塞ぐように話しているのが悪いのだ。全く、嫌になる。
 おばさんの群れを散らし(どうせまた集まるのだが)、私は家に入ると買い物袋の中身も出さずに二階へと上がる階段を上る。
「何でこうもおばさんって噂好きなのかしらね………………」
 一人呟くと、持ち手が食い込み赤くなった手を見つめる。じんじんと痛い。
「…………冷却剤、あったかな」
 自分の部屋の扉を開けると、救急箱を取りだし中を漁る。
 目当てのものは見つからなかった。まぁじんじんした痛みも、すぐに引くだろうから半分冗談で探していたのだが。
「しまった、買っておけばよかった」
「なぁに、あんたまた買い忘れ?」
 背後からの声に振り返ると、今年二十後半になる姉の姿。
「………………冷却剤、買い忘れた」
「ドジねぇ。前回もそれじゃなかった?」
「……多分」
 いやはや、自分の忘れ癖もここまで来ると天晴れだ。
 溜息を吐き、姉は壁に寄り掛かると私の胸元を指さす。
「怖い話、聞いたの?」
 言われてみれば、いつも身に着けている紅いペンダントヘッドが、蒼い。
 よく怪談をすると霊が集まると言うが、何故かこのペンダントヘッドはそういうものに敏感だ。
「怖い話って言うか、この前の台風の話」
「ああ、女の子が死んだアレ」
 事も無げにそう言うと、視線を窓の外へ向ける。
「…………また来るそうよ? 台風」
 にぃ、と口端を吊り上げて笑う姉は、なんだか魔性の女、といった感じで気味が悪かった。
 姉はたまにこういう顔をする。それは面白い遊びを思いついたときであり、面白い玩具を見つけたとき。この時の姉は、正直に言うと別人のようになる。気味が悪いという次元じゃない気もする。
「だから、外には絶対出ないようにね?」
 注意するだけすると、姉は他に何も言わずにその壁から背を離して去っていった。







 四日後、台風がやって来た。
 台風何号、とかニュースの天気予報でやっていたけど興味なく、だから何号かは知らない。何号目かなんて関係なく台風は来るし、来た台風はもう後ろに戻ってくれない。
 と言っても、まだ風はそんなに強くない。雨も小雨程度だ。川が氾濫するにはまだ時間が掛かる。
「だったら憶えているうちに買いに行くのが一番だわ……………………」
 一人呟き、私は堤防を小さなビニール袋片手に歩く。
 今日唐突に思い出した冷却剤の買い忘れ。まだ天気もそう荒れてはいないし、思い立ったが吉日。忘れないうちに買いに出たのだ。
「………………あれ、そう言えば何か言われていたような?」
 確か姉に。台風の日がどうたらこうたら、と。
 暫く頭を捻って思い出そうとするが思い出せない。まぁ、忘れると言うことは差して大事なことではないのだろう。そう言うことにしておこう。
 ビニール袋の中の冷却剤を確かめ足早に歩いていると、
「……………………ん…………」
 声が河原の方から聞こえた。
 見れば、女の子が一人レインコートを着て遊んでいる。台風だというのに暢気だ。





 向かいの家の女の子。死んじゃったそうよ。
 何でも台風の日に外に出て、増水した川に落ちちゃったんですって。





 おばさん達の噂話が頭を過ぎる。
 女の子。台風。川。――――――――死。
「…………しょうがない」
 呟き、女の子に近づく。
 黄色いレインコートを着て赤い長靴を履いた女の子は、まるでけんけんぱをしているように飛び跳ねている。
「ねぇ、お嬢ちゃん」
 声を掛けると、女の子は私の方を振り向いた。
 女の子はにっこりと微笑みを浮かべて、なぁに? と無邪気に聞いてくる。
「台風が来たからお家に帰らないと、危ないよ」
「うん」
 頷いた女の子の様子に微笑むと、私はその雨に濡れて冷たい手を取って歩き出す。
 早く川から離れないと、雨の勢いが増したらすぐに水が増えてしまう。
 女の子は歩くのが遅く、手を引っ張っていても速さは上がらなかった。逆に足が縺れて立ち止まってしまう。
 雨が少し、勢いを増した。風も強くなってきた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 健気に頷く女の子に微笑むと、私はゆっくりと、しかしなるべく速く歩くようにする。
 歩いて、もう少しで堤防だぞというときになって気付く。
 女の子の手が、ぞっとするほど冷たい。まるで死人と手を繋いでいるかのように。雨で濡れて体温が下がったからと言って、ここまで冷たくなるだろうか?
 ぐ、と女の子が私の手を握る力を強くした。
「っ」



 振り返ると、女の子は笑っていて。



「お姉ちゃんも一緒に、ね?」



 後ろには、溢れた川の水が迫っていて。



「一緒に、逝こ?」



 風雨の勢いは、とてもとても強くなっていて。
 握られた手がとても冷たく、女の子の足は止まっている。引っ張ってももう、びくともしない。手を振り解こうにも、その力は強い。……きっと痣になるだろう。
 川の水が私達に迫り、ぶつかり、押し流そうとする。
 水の流れに錐揉みされて、どちらが上でどちらが下で、右も左も解らなくなって、ただ、藻掻く。
 このまま死ぬのだろうか。死ぬ寸前には走馬燈が見えるのだろうか。





『だから、外には絶対出ないようにね?』





 姉の言葉を、漸く思い出すことが出来た。
 だけど、今思い出しても後の祭り。ああ、やっぱり私の記憶力は宛てにはならない。天晴れどころですらない。
 水の中で前後不覚に陥るとパニックになって助からない、と聞いたことがある。今がその状態なら、私は助からないのだろう。
 不思議と、焦りはなかった。パニックにもならなかった。多分、私は何処か壊れているのだ。――――――――いつものように、息をするように、自然にその答えに行き着く。
 右手をとりあえず、伸ばしてみる。
 こつん、と蒼く光ったままのペンダントヘッドが爪に当たったのが解った。
 そして――――――――









「この馬鹿ッ!」





 罵声と同時に手が掴まれ引き上げられる。
 げほ、と水を吐いて咽せる。息を急いでしようとして、浅く何度も呼吸する。まるで長距離を走った後のよう。
 目の前には、姉。どうやらとても怒っているらしく、目が細められている。
「あれほど外には出るなって言ったでしょうが!」
「…………実際に言ったのは一回だけ」
「黙らっしゃい!」
 言葉で切り伏せられ、私は口を閉じる。
 姉に引っ張られて激しい流れから身を出すと、ビニール袋が破けていた。中身の冷却剤は何処かへ流されてしまったようで見あたらない。
「あー…………」
 お金がもったいなかったなぁ、と呟くと姉に頭を殴られる。
「命があっただけマシでしょ!」
「………………うん、そうだね」
 素直に言うと、姉が傘を差し出す。
「早く帰らないと風邪引くわよ」
 傘を受け取り、姉と二人並んで私は歩き出す。
 川の方は見ないようにして、なるべく姉の側に寄り添うように。
 きっと、あの川にはあの女の子がいる。まだこちらを見ている。私を連れて行こうとしている。
 私はまだ逝かない。私はまだ、逝きたくない。だから女の子はもう見ない。
「………………………………ごめんね」





 昔、ある川で女の子が溺れ死んだ。
 増水した川の近くで遊んでいて、誤って落ちてしまったらしい。
 女の子の遺体は見つからず、忘れ去られていった。
 そして十数年後。
 台風や豪雨などで川が氾濫したり増水したときに女の子が遊んでいると、昔死んだ女の子の霊が出てきて川の中に連れて行ってしまうと言う噂が流れ出した。
 噂話は人の恐怖を煽り、眠りに付いていた幼子の魂を呼び起こす。
 呼び起こされた魂は、噂話を現実に移していく。











「――――――――一緒に、逝こう?」






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あと九十九本……「最期」