あと九十九本……「最期」








 朝も早くに学校に来る人間というのは、少ない。
 特に家が学校に近ければ近いほど、来るのは遅れてしまうと言うものだ。
 朝早くに起きるのは辛い。それでも早く起きるのは、私に目的があるからだ。
 きゅっ、きゅっ、と静かな廊下に私の足音が響く。運動靴のゴムで出来た靴底が、リノリウムの床に擦れて音を立てている。
 私の平日の日課は、学校に早く来て教室内の整理整頓をし、読書をすること。
 だから早くに学校へ向かうことは辛くない。起きるのは、辛いのだけれど。
 がらり、と教室の扉を開けると、珍しいことに先客がいた。
「…………あ」
 私のことを確認すると、彼女は微笑みかけてくる。
「おはよう、小俣さん。朝、早いんだね」
 朝の陽射しを横から浴びて、私に挨拶をする姿はそう、まるで――――――――。





 まるで、今にも消えてしまいそうな。





「お、おはよう」
 そんな考えを振り切るように、頭を振りつつ席へ向かう。
 私が鞄を降ろすと、彼女は席を立って私に近づいてきた。
「小俣さんはいつもこんな時間から学校に来てるの?」
 そうよ、と適当に頷きながら私は机の整頓を始める。
 彼女も私に倣って机を真っ直ぐへと直していく。恐らく昨日の放課後、ここで誰かが遊んでいたのだろう。机の列は歪んでいた。
 手早く綺麗に並べ終えると、彼女を見る。
 黒板消しを手に取り、黒板の汚れを取ろうとしているらしい。私も近づき、もう一つの黒板消しで黒板を拭いていく。
 しゃらん、と彼女の首元で鎖が揺れた。
 彼女の祖母の形見、らしい。遺言で、それを手放すなと言われたと、確かクラス編成後に担任へ言っていたのを憶えている。
 鎖の先で、いつもは紅いはずのペンダントヘッドが、蒼く輝いていた。
「…………ねぇ、それ」
 私がペンダントヘッドを指さすと、彼女は不思議そうに、
「蒼いねぇ。……何か起こるのかな」
 と呟く。
「何か?」
「うん。この前の台風、これが蒼かったときに危ない目にあったんだ」
 だから気をつけないと。
 そういう彼女は淡々としていて。
 命の危機なんて、まったく感じさせない。
 だから、大丈夫なのだろう。大丈夫だったのだろう。
 そんなに心配するようなことではなかったのだ、きっと。
「気をつけてね? 結構、抜けてるでしょ」
「よく言われる」
 私の言葉に少しも顔を歪めず、彼女は黒板を拭いていく。
 いつも彼女はそうだ。何を言われても冷静。激怒した所なんて、見たことがない。想像すら付かない。





 だから少し、羨ましい。





「小俣さん、黒板消し貸して。叩いて綺麗にする」
 右手に黒板消しを持ち、左手を私に差し出しながら彼女は言う。
「……黒板消しクリーナー使ったら?」
「んー、時間あるから、叩く。こっちの方が綺麗になるし」
「そう」
 黒板消しを手渡すと、彼女はぱたぱたと窓へ駆け寄っていく。
 その後ろ姿を見ながら、私は考えてしまう。
 何が彼女を彼女たらしめているのだろうか、と。
 きっと彼女は“特別”なのだろう。だから、彼女らしさがある。彼女は彼女として生きていくことが出来る。赦されている。
 それに比べて、私は…………。
 日の光に、彼女の茶っぽい髪が透けて見える。触ったら、さぞかし柔らかいのだろう。
 紺色のスカートとブレザーを着て白い靴下を履き、学校という一集団の中に所属する彼女。それでも、彼女は学校に染まりきらない。
 胸のペンダントヘッドがその証のように輝いて見える。決意の表れのように見える。
 曰く、「私は何にも染まらない、私は私なのだ」と。
「綺麗になった?」
 彼女の後ろ姿に声を掛ける。
「うん、なった。…………ほら」
 振り返り、黒板消しを見せて確認させる彼女。
 私は黒板消しを確認した後、疑問に思っていたことを口にする。
「ところで、こんな朝早くからなんで学校に?」
「………………………………忘れた」
「え?」
「うん、あのね。何をするつもりだったか、忘れちゃった」
 平然とそう答える彼女が可笑しくて。
 私は暫くの間、お腹を抱えて笑ってしまった。







「不覚…………。あんなに笑っちゃうなんて、失礼だったわ」
 放課後、駅のホームで。
 私は学校に電車で通っている。だから多分、彼女より家が遠い。そして、私は一人で学校から家へと帰宅する。だからこうやって独り言を言うことが出来る。
 家に行くのか、はたまた仕事場へ行くのか。人が多くもなく少なくもなくいるホームは、色んな音で溢れかえっていた。
 携帯の鳴る音、メールを打つ音、電話をする音、足音、話し声、漏れ聞こえる音楽、アナウンス、電車がホームに滑り込む音、お金が落ちる音、機械が動く音…………。
 ざわざわとごちゃ混ぜになって耳に届く音は、今ではもう気にならないくらい当たり前のことになっていた。
 聞こえることが当たり前で、違和感の入り込む余地のない現実。
 だから、少しだけ油断していた。



 身体が傾く。



 白線を越える。



 砂利とレールがある地面へ落ちる。



 少し高めのホームを見上げる。



 電車が滑り込む音が聞こえる。



 ブレーキ音。



 迫る車体。



 恐怖。



 パニック。



 ――――――――――――冷静。



「………………………………ぉい、ボサッとしてると危ないだろうが」
 声に引き戻され、見ると若い男性が私を見て不快な顔をしていた。
「ご、ごめんなさい」
 謝ると、その男性はまだ私の方を見ながら、それでも歩み去っていく。
 ………………なんだったのだろう、先刻のは。
 白昼夢でも見ていたのだろうか。妙にリアルで、生々しい。…………こういう怖い夢は、普通夜寝ているときに見るものだろうと思っていたのだけれど。
 寒気を感じ、腕に手を当ててさする。やっぱり鳥肌が立っている。
 夢なのに、夢とは思えない。そもそも今のは夢? 本当に?
「……………………考えるの、止めよう」
 呟くと、ちょうどよくホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。







 あの白昼夢から一週間。
 あれから白昼夢は見ず、やっぱりただのリアルな夢だったと安堵する。
 先生に呼び止められ、結構遅くまで残ってしまった私は急ぎ足で校門を潜る。
「先生ってば、話長すぎ…………」
 げんなりと呟くと、後ろから足音がした。
 他に誰が残ってたのだろうと振り向けば、彼女。
 微笑みながら彼女は私に向かって口を開く。
「小俣さんも今帰り?」
「ええ」
「じゃ一緒に帰ろう」
「でも、私電車通学…………」
「うん、知ってる。ちょっとね、姉を迎えに行くの」
 彼女の口から家族の話が出たことに少し驚きつつ、私は彼女の申し出を受けた。断る理由もないし、誰かと帰る事なんて今まで無かったから。
 駅までの道程、とても他愛ない世間話に花が咲く。
 そこだけ見れば、とても仲のよい友達の様子。でも私と彼女はあまりこうやって喋ったりはしない。と言うより、彼女の表情があまり変わらないから、どう付き合えばいいのかクラスの全員が苦戦している。
 可愛いから男子が言い寄ってきそうだけど、その無表情さに諦めていく。
 だから寄るのはナンパか物好きか、そういう系の男の人らしい。彼女曰く。
「普通に告白受けてみたいわ」
「だったら表情出せばどう?」
「小俣さんみたいに?」
「私は…………どうだろ、上手く出せてるのかな」
 苦笑しながら前を見れば、駅がもう目の前に迫っていた。
 一緒に駅の中に入ると、彼女は切符を買ってホームまで来てしまった。
「お姉さん、ホームで待ってるの?」
「うん、そうみたいなの」
 軽く二言三言交わしたところで、彼女はお姉さんを見つけたらしく手を振る。
 その瞬間、しゃらん、と音を立ててチェーンが外れたペンダントヘッドがホームの床に落ちた。
「あ」
 彼女は転がっていくペンダントヘッドを呆然と見送っている。
「私取ってくる」
「あ、ありがとう、小俣さん」
「いいって」
 やはり彼女は少し抜けているところがあるらしい。
 苦笑しながら私はホームの白線ギリギリまで転がっていったペンダントヘッドに手を伸ばそうとして――――――――。





 目が、合った。



 「私」が、私を、見ていた。





 にたり、と私がしないような笑みを浮かべて、「私」はペンダントヘッドに伸ばした私の腕を掴むと勢いよくそちら側――――白線の向こう側、ホームの床がない、電車の車体が滑り込む線路の方――――に引き寄せる。
 咄嗟のことに反応できない私は、なされるがまま力の加わるままにホームから空中へ投げ出される。
 電車の車体が滑り込んできて、それが視界に映る。
 ブレーキ音。でも私は知っている。それは間に合うことがない。
 そうして私の身体は――――――――――









「ねぇ、あんた。…………アレ、友達でしょ?」
 姉が何を「アレ」扱いするのか解らなかったが、振り返る。そして、納得する。
 ちょうど小俣さんがホームから転落し、電車がそれを轢き殺す瞬間だったから。死体を物扱いするのは姉の言い方の特徴の一つだから。
 小俣さんの首が千切れ飛び、ホームの床に真っ直ぐ生える。
 肺がもう無いはずのその首から、言葉が漏れ聞こえた。
「……………………どうし、て…………わた……し………………………………?」
 それが小俣さんの、最期の言葉だった。
 姉が転がっていたペンダントヘッドを拾ってきて渡してくれる。ペンダントヘッドの色は、何故か紅に戻っていた。
「死に、連れてかれちゃったわね」
 ぽつりと姉が呟いたのが聞こえた。







 翌日、小俣さんが座っていた席には花瓶に入った花が飾られていた。
「………………小俣さんに、黙祷を」
 先生の暗く沈んだ声が教室に響き、全員がその手を黙祷の形にして目を閉じた。
 私もその例に漏れず、目を閉じて黙祷した。






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あと九十八本……「手」